2008年10月10日星期五

歴史と人生

午後学校に行った。
L先輩と会って、Mで一時間半話していた。W君も。
その後、劉ゼミに参加した。久しぶりの葉さん、鄭さん、小笠原さん、島田さん、新しいメンバーの邹さんみんないった。先生は会議で二時間半遅刻、皆でおみやげ(浅井さんの韓国煎餅と葉さんの月餅)を食べながら土産話をしていた。
待ちに待った劉先生は来た。その時、島田さんの発表を聴いている。
ゼミは10時25分までだったが、先生が深い話をしてくれたので、有意義だった。

いつも劉先生の講義を聞くと、やる気ががんがん沸いてくる。刺激を受け、頭の回転も早くなる。しかし、早稲田から八王子に帰ったら、ちょっと薄くなる。ちょっと怠ければ、希薄化する一方だ、ということもショッチュウ。まだ覚えているうちにまとめなきゃと最近思うようになった。

今日の深い話は次の如く:
話は歴史研究から始まった。後期の劉ゼミは『竹内好のセレクション』を輪読することにした。今回は第一回の発表で、報告者は島田さん。さすがの島田さんも「難しい」と劉先生に苦情を言い尽くした。劉先生は次のように答えた。意味深長。
歴史研究においては、限界がある。特に自分が経験したことのない時代について書こうとする場合、さらに困難。例えば、今の若手研究者が70年代の歴史を書くとき、その本を70年代を経験した人に見せたら、どうもこれはおかしいと、違うと言われるのが普通。なぜなら、その時の空気を吸っている人と吸っていない人の感覚が違うからだ。いくら資料を読んでも限界があると言うことだ。
その経験していなかった時代の空気をどう読むのかが課題だ。どうすればいいのか?という皆の質問。答えは、旅をする。僕に言わせば、所謂「読万巻書、行万里路」。
ある先生が良く学生をお墓に連れて行く。なぜなら、人間は墓石の前に立って、三十分経つと、自然に死んだ人の立場になって物事を考えるようになる。つまり、お墓の中の遺灰がどうなっているかのではなく、その人の生きていた時代のことをイメージし、想像するのだ。想像することによって、何らかのヒントを得られるそうです。
歴史を書く人の性格、感性が歴史に大きな影響を与える。だから、より真実な歴史を語るために、資料解読だけではなく、家を出て旅をしよう。ある古い建物、或いは庭園に行って、そこであなたに当たった風が古人に当たった風とは同じものだから、その瞬間、古人と同じ気持ちになるかも知れない。それは霊感かな。
現在の実証学は資料に基づき、立派な論文を書いてある。が、その立派なビル(論文)から、人の笑い声、鳴き声、匂いなどという生気が感じ取れない。
現在の中国研究もそう。中国論が溢れているなか、自分なりの中国論を書くのは至難なことだ。現在は「日本にいて中国を見る」といういい研究環境に恵まれているかが見える。が、実は中国研究者の八、九割が中国人だ、日本にいっても中国だという状況。
問題はそういう問題をどうやって乗り越えられるか?
劉先生は昔の日本人が書いた本を読む。まず『竹内好のセレクション』だ。

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